フランスの「つながらない権利」

 

今日はフランスのお話です.2016年の春から夏にかけて大騒ぎになった改正労働法は,6月21日に成立,8月4日に施行されました.改正労働法については,川野祐司「労働法改正問題にみるフランス経済の問題点」世界経済評論IMPACT,No. 640.をご覧ください.

 

 

改正労働法は一時的に週35時間労働を超えてもよい,残業代を削減してもよい,などが大きな問題となり,大規模なデモに発展して大きく報道されました.一方で,改正労働法にはあまり報道されない内容も多く含まれており,その一つが「つながらない権利:droit à la déconnexion」です.

 

改正労働法により,2017年1月より,従業員50人以上の企業について,労働者(または労働組合)との協議の中につながらない権利を含めることとなりました.協議がまとまらない場合には,企業は政府が公表するベストプラクティスを取り入れて自社の制度を改正することができます.つながらない権利とは,労働時間外にはメールやSMSなどのテキストメッセージサービスにアクセスしない権利を指します.つまり,退社後は仕事のメールを見ないということです.ヨーロッパの大企業の中にはすでにつながらない権利を実現させている企業もあり,AXAなどの名前が報道されています.午後9時から午前7時までの間はメールにアクセスできない,というのがよくあるパターンのようです.

この背景には,デジタル機器の発展により,仕事とプライベートの時間との境目があいまいになっていることがあります.フランスは35時間労働時間制度ですが,EUROSTAT(欧州統計局)の「生活の質」統計ではフランス人は37.5時間働いています(EU28カ国の平均は37.2時間).下の図は,過去1カ月の間に夕方の仕事をしたことがあるか,というアンケート結果です.フランスの数値はEU平均よりも低いですが,ヨーロッパ人は残業をしない,という固定観念を見直す必要のある数値です(ただし,もともと勤務時間帯が夕方だという人が含まれている可能性があります).

 

夕方に仕事をする人の割合

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(データ出所)EUROSTAT

 

ちなみに,ギリシャはかなり高い数値が出ていますが,生活の質統計でもEU28カ国の中でギリシャ人の労働時間が最も長く42時間に達しています.ギリシャは失業率の高い国ですが,多くの失業者がいる一方で就業者の負担が大きくなっていることが示唆されます.

 

フランスでは,帰宅後もメールなどで仕事を続けざるを得ない状況について「電子の首輪」という表現があります.電子的に常時つながれている犬と同じということです.仕事とプライベートの区別をつけないことは,生活の質を低下させるだけでなく,仕事の生産性も低下させます.Computers in Human Behaviorという雑誌(有料コンテンツです)では,メールがストレスの増加や生産性の低下につながるという論文が公表されているそうです.また,自宅でメールを見て仕事をしても,企業からは労働時間として認識されません.それは,無償で仕事をしていることになり,賃金を低下させる圧力になってしまいます.つながらない権利はワークライフバランスや生産性だけでなく,労働の公平性の観点からも必要だと考えられています.

ワークライフバランスの確立は,日本では企業の収益にとってマイナスだという考え方が強いようです.意味のない作業をだらだらと長時間続けることに価値を見出す人が日本に多いことも背景にありそうです.また,企業や仕事に依存して精神的に自己を確立できない人が多いことも背景にあるように思えます.

一方で,少なくともヨーロッパでは,ワークライフバランスの確立は仕事の生産性や創造性を高めるために必要だと考えられています.アメリカのICTの企業では従業員がリラックスするための様々な施設やルールを整備していることは日本でも知られています.長時間労働は仕事をしたという達成感があるかもしれませんが,趣味と違って仕事は成果が出なければ意味がありません.達成感があっても結果が伴わなければ意味がないという合理的な考え方ができるかどうかがポイントになりそうです.

 

夜の間にメールをしないということは,朝会社に行くと多くのメールが溜まっている状況が生まれることになります.そうすると,時間をかけるべきメールとそうでないメールを区別する必要が生まれ,メールの振り分け技術などの向上につながります.無駄なメールを送っても相手にしてもらえないので,無駄なメールは減っていくでしょう.短期的には朝の仕事が増えますが,長い目で見ると生産性が高まる可能性があります.フランスのつながらない権利は,今後は他のヨーロッパ諸国にも広がる可能性があります.

ただし,現状ではいくつかの問題点もあります.最も大きい問題点は,従業員50人以上の企業を対象にしていることです.ICT関連などメールを多く使いそうな企業は規模が小さいことも多く,改正労働法の対象にはなりません.また,企業は国際化しており,支店や取引先は多くの時間帯に広がっています.これらの関係先との連絡を素早く実施するためにはどうすべきなのか考える必要があります.さらに,フランス人のライフスタイルの多様化により,夕方や夜間帯の仕事を希望する人が増えたらどのように対処するのか,という問題もあります.夜になったら一律にメールシステムをシャットダウンさせる,というだけでは不十分かもしれません.

それでも,つながらない権利に向かって一歩進んだフランスの動向は注目に値します.単に働きたくない,という考え方ではなく生産性向上のための手段の一つとして捉えていることも重要です.フランスでは労働者の権利が強く,生産性が低いことが問題となっていました.2010年代に入って,EUの経済ガバナンスの影響もあり,少しずつフランスの環境は改善しつつありますが,労働者にとって不利なものが多いのも事実です.今回のつながらない権利は,労働者の権利と生産性の向上を両立させる方策です.日本でも検討する価値があるのではないでしょうか.

 

本日はここまで.