ハードブレグジットへの誤解

 

今日は,イギリスのEU離脱についてです.6月8日の総選挙で保守党がわずかに議席を減らして過半数割れしたことから(330→318議席),イギリスのEU離脱方針がどうなるのか,関心が集まっています.メイ政権はハードブレグジットを目指しているといわれていますが,ハードブレグジットとは何でしょうか?

 

2016年の国民投票を受けて,キャメロン前首相が辞任したことに伴ってメイ首相は就任しました.選挙の洗礼を受けていない首相でしたが,今回の選挙で勢力を減らしたものの,第1党を確保したことから,市民の一定の支持を受けて離脱交渉に臨めるようになったといえます.

 

選挙ではEU離脱は最も重要な争点ではなく,高齢者福祉などのより右派的な政策やメイ首相個人のパーソナリティ(強硬姿勢や麦畑発言など)に問題があったように思われます.日本のメディアではオランダ,フランスも含めて選挙の争点をEUに絞りがちですが,国政選挙は現政権への賛否や国内政策(マニフェスト)が投票行動に影響を与えており,EUは小さな争点の一つに過ぎません.これは,EU条約の改定に伴う国民投票など,ヨーロッパでは一般的にみられる現象です.

 

スコットランドでは,SNP(スコットランド民族党)が2015年に大勝利した反動で議席を大きく減らしましたが(56→35議席),その分を労働党が穴埋めするとの予想に反して(1→7議席),保守党が議席を取り返しています(1→13議席).SNPはイギリスがEUから離脱すればスコットランドはイギリスから独立するという方針を出していましたが,これが市民から信認されなかったことを意味しています.

 

北アイルランドでは,ユニオニスト党(DUP)が他のユニオニスト政党から議席を奪い(8→10議席),保守党との連立が模索されています.ユニオニストは北アイルランドをイギリス領のままにすることを目的としており,北アイルランドをアイルランド領にすることを目指しているリパブリカンのシン・フェイン党(4→7議席)を抑えています.

 

これらから,選挙の結果,イギリスの各地域はイギリスの分裂を望んでいない,ということが明らかになったといえます.メイ政権にとっては,選挙の洗礼,DUPと連立すれば何とか過半数,他の地域からの信認を得たということで,失敗選挙だったものの,何とかなっている状況ではないでしょうか.

 

ここからは,本題のブレグジット(Brexit)について見ていきます.メイ政権は2017年1月に12の方針を,2月に白書を発表しています.こちらについては「イギリスのEU離脱(Brexit)」で扱っていますので,そちらをご覧ください.

方針から言えることは,EUとの関係をこれまでと大きく変えたくない,ということです.ハードかソフトか,の境目は単一市場へのアクセスをどうするのか,という点にあります.人・物・資本・サービスの自由移動を実現する単一市場は1993年から始まっていますが,EU側は4つの要素は一体であるとの立場に対して,イギリスは一つ一つ切り離して議論したいと考えています.つまり,ポーランドなどからやってくるEU域内移民を制限したいが,貿易などはこれまで通りにしたい,というわけです.EU側は,これを,都合のよい議論とみなしています.

 

メイ政権がハードブレグジットを目指すということは,EU域内移民の流入に歯止めをかけたいということで,これは2016年の国民投票の争点でした.当時はEU域内移民を減らしたいということでEU離脱に投票しましたが,その代償として貿易や金融面での不利益があるのではないかという見方が増えています.ここに誤解があります.

EUから離脱すれば,ハードでもソフトでも貿易や金融面で制限があるのは当然です.特に,ユーロを使った取引については,イギリスがEU域外になれば,これまで通りのビジネスができなくなるのは当然です.交渉の余地はとても小さいでしょう.アイスランド,リヒテンシュタイン,ノルウェーが参加するEEA(欧州経済領域)はEUの単一市場に参加していますが,農産物などには関税が残っており,完全にフリーで貿易できるわけではありません.フリーには2つの意味があり,関税がないということと費用を払わないということです.EEAはEUに対して一部の品目で関税を支払い,EUに対して分担金(EU経費)の支払いを行っています.イギリスが永続的にEUと密接な関係を保ちたければ,費用負担も必要です.これらの点も,ハードやソフトとは関係がありません.

 

イギリスは12の方針で,科学技術分野などでの予算負担を明記しています.EUが行う地域政策などは,EUと関係する加盟国・自治体が資金を出し合います.多くのプロジェクトは最長で2020年までを対象としています.イギリスが2019年にEUを離脱したとしても,2019年と2020年はイギリスにEU関連の費用負担が発生します.今後はEUとイギリスの間で,それ以外の一般経費の負担について交渉が進みますが,イギリスは2020年までの一般経費の費用も負担せざるを得ない状況になりそうです.この費用負担も2016年の国民投票の争点で,EUに支払っている費用をなくして国家医療制度(NHS)に回せばいいという,離脱派の主張は少なくとも2020年までは成り立ちません.

 

ハードブレグジットという言葉には,イギリスがEUから袂を分かつようなイメージがありますが,メイ政権はそんなことは考えておらず,また,できないということです.また,ソフトブレグジットにしたいと考えても,一部の貿易品の関税導入やユーロに関わる金融サービスの縮小は避けられません.実は,ハードとソフトの間には感情はともかく,実際にはあまり差がないのです.

 

日本ではあまり報道されていませんが,メイ政権はもう一つの白書を公表しています.それは,「EU離脱法に関する白書(Legislating for the United Kingdom’s withdrawal from the European Union)」です.これは,The Great Repeal Bill White Paperとも呼ばれています.The Great Repeal Billには「大廃止法案」という日本語訳がありますが,誤解を招きやすいので,ここでは,EU離脱法と呼ぶことにします.

というのも,「廃止」という言葉からイギリスがEUの法律を廃止するための法案だと勘違いしやすいからです.実際は,2019年3月と考えられるEU離脱の初日に,イギリスとEUの法律が同じになるようにイギリスの法律を整備する,という意味があります.つまり,イギリスの法律をEUに合わせるための法案です.この取り組みをしないと,EU加盟の最終日とEU離脱の初日でイギリスの法律が大きく変わってしまい,ビジネスなどに悪影響が出るからです.この点を少し解説します.

EUには二次法と呼ばれるさまざまな法律があります.特に,「規則(regulation)」と呼ばれる法案は,EUが制定するとEU加盟国にそのまま法律として適用されます.EU規則に対応するために,イギリス議会が新しく法律を作る必要がありません.現在有効な規則は12000ほどあると白書で指摘していますが,これらについてイギリスで新たに法律を作る必要があるか議論します.イギリスがEUから離脱すれば,EU規則はイギリスでは無効になるからです.

二次法の他にも,EU司法裁判所が判例として出した考え方も,現在はイギリスの裁判所でも有効です.EU法はイギリス法よりも上位にあると考えられているためです.これらの判例もEU離脱に伴い無効になります.ビジネス上のルールなどに関係しますので,これらを法として制定する必要があるかどうかを考える必要があります.

EU離脱後は,イギリスには独自に法を作る権利があり,EUに合わせる必要はありません.しかし,メイ政権は混乱を避けるために,EU離脱直後はEUの法体系を受け入れたままにしたいと考えており,そのための作業が必要です.1000以上の法案を審議する必要があります.それだけでなく,2017年4月から2019年3月までの間にEUでは新しく二次法が作られます.EUでは年平均で1000ほどの法案ができますので,それにも対応させる必要があります.EU離脱法はこれらの問題に対処するための法案です.ちなみに,Billというのは提案の段階の法律で,議会の承認などの手続きを経て正式な法律になるとActと呼ばれるようになります.

この法律の面からは,少なくとも2019年3月までは,メイ政権はEUの法制度に合わせる方針が分かります.4月以降はイギリス独自の法案を作れますが,EUとのビジネスの親和性を保つのであれば,大幅に変更することはできず,EUの動向を絶えずチェックすることになるでしょう.これでもハードブレグジットです.言葉の印象とは異なるのではないでしょうか.

 

それでは,イギリスのビジネスには何も影響がないのでしょうか? 民間のシンクタンクの資料を見てみると,多くの企業がすでに動きはじめていて,現在の所はイギリスから一部の機能を脱出させる動きの方が多いようです.2019年が近づくと,EU大陸側からの進出も増えるでしょう.ここまで見てきたように,ユーロに関わる金融業務には影響が出るため,ロンドンシティーの地位低下は避けられません.ただし,ロンドンが明らかな世界1位から,何とか世界1位を維持する,または,2位になってしまう,というくらいの地位低下です.

 

他の点も見てみましょう.選挙の結果を受けて,EU離脱交渉が議会の干渉を受けて進まなくなるのではないか,という見方があるようです.しかし,メイ政権はEUとの交渉については議会に情報提供して議論するものの,議決はしない方針です.つまり,議会で過半数がなくてもEU離脱交渉には関係ありません.もちろん,この方針が貫けるかどうかという問題はあります.

 

また,北アイルランドのユニオニスト党と連立を組むと,北アイルランドの利害がEU離脱交渉に及ぶのではないか,という見方もあるようです.この点については,EU離脱交渉の首相合同会議(The Joint Ministerial Committee on EU Negotiations:JMC(EN))をすでに設置しており,イギリス4地域の意見を聞きながら離脱交渉を進める体制が整っています.メイ政権の方針には4地域の団結がうたわれており,これまでイングランドが持っていた決定権の一部を3地域に移譲する予定です.

 

労働党などが団結してEU離脱の撤回運動を起こすという見方もあります.撤回運動をするのは自由ですが,リスボン条約第50条は発動されており,イギリスは離脱しか道がありません.ただし,離脱後にEU再加盟の申請はできます.イギリスの再加盟は認められるでしょうが,イギリスが加盟国分担金の25%を免除してもらっているリベート制度やイギリスが得ているEUルールの適用除外などは失うことになるでしょう.EUにとってはいいことですが,イギリスにとってはそれならはじめから離脱しなければよかった,ということになります.

 

メイ政権は,「交渉結果がイギリスにとって不利になるくらいなら,交渉がまとまらなくてもいい」ということをいっています.これについても誤解があるようです.ここまで見てきたように,イギリスはEU離脱法を進めて,イギリスの法律をEUに合わせる予定です.交渉がまとまらない,という状況でもイギリスの法律はEUの法律と同じになります.ですので,当面はイギリスにとっては問題ないだろうという意味です.破れかぶれになっているわけではありません.

 

最後に,交渉期限は2019年3月というのも誤解です.交渉がまとまると,EU内では法的な手続きに入ります.また,27の加盟国が交渉結果を承認する必要があります.各国の議会の手続き等もあるので,交渉期限は2018年11月くらいになるのではないかと考えられています.もともと18カ月の交渉期間が考えられていましたが,選挙のせいで2週間ほど時間を無駄にしています.できるだけ早く交渉を始める必要があるでしょう.

 

本日はここまで.