イギリスのEU離脱(Brexit)

 

今日はイギリスのEU離脱のお話です.イギリスのメイ首相は28日にEU離脱を通告する書簡に署名し,29日にEUに届けることになりました.今後はEU離脱に向けての交渉が始まることになります.

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写真はタワーブリッジです.テムズ川クルーズに参加すると,橋を下から見られます.ウェストミンスター(ビッグベンのほとり)からグリニッジまでのコースはミレニアムブリッジなどのいろいろな名所を通るのでお勧めです.行きは船で,グリニッジ天文台(今は有料です)を見学して帰りは地下鉄だと効率的に回れます.

 

Brexitについては,
川野祐司「EU離脱(Brexit)に向けたイギリスの課題」『国際貿易と投資』2016年冬号106号,pp.13-25. 
川野祐司「イギリスはEU離脱(Brexit)後も競争力を保てるか」ITI調査研究シリーズNo.54,pp.51-70.
川野祐司「真のポストBrexitは2021年」『世界経済評論IMPACT』No.829. をご覧ください.

イギリス(Britain)がEUを抜ける(exit)ということから,この2つの単語を組み合わせてブレグジット(Brexit)です.メディアではギリシャなどいろいろな国を対象に同様の単語を使っています.

メイ首相は1月17日にEU離脱交渉の12の原則を公表し,2月2日には詳細を発表しています(The United Kingdom’s exit from and new partnership with the European Union White Paper).イギリス政府のホームページにはBrexitの特集ページもあります.昨年7月にはEU離脱省(Department for Exiting the European Union:DExEU)も設置され,離脱に向けた準備は着々と進んでいます.

 

ここでは,白書をもとにイギリスの離脱方針を見てみましょう.

(1)確実さと明確さ

現在のところ,EUとの交渉は2年かかると考えられています.根拠は,リスボン条約第50条にある交渉期限が最長2年になっているためです.延長の可能性もありますが,イギリス政府はできるだけ早く交渉を終わらせたいはずです.離脱交渉中はイギリスはEU加盟国であり,EUの法律が適用されます.EUの方針に反するイギリス独自の新しい法が適用できるのは離脱が完了してからです.イギリスはEU離脱法(Great Repeal Bill)を準備しており,離脱に向けた国内の整備を進めています.また,離脱交渉はイギリスの議会やEU離脱交渉の首相合同会議(The Joint Ministerial Committee on EU Negotiations:JMC(EN))にも報告しながら進めるとしています.

 

The Great Repeal Billには「大廃止法案」という日本語訳がありますが,誤解を招きやすいので,ここでは,EU離脱法と呼ぶことにします.というのも,「廃止」という言葉からイギリスがEUの法律を廃止するための法案だと勘違いしやすいからです.実際は,2019年3月と考えられるEU離脱の 初日に,イギリスとEUの法律が同じになるようにイギリスの法律を整備する,という意味があります.つまり,イギリスの法律をEUに合わせるための法案で す.この取り組みをしないと,EU加盟の最終日とEU離脱の初日でイギリスの法律が大きく変わってしまい,ビジネスなどに悪影響が出るからです.

 

(2)イギリス法のコントロール

離脱が完了するまでは,EUが作成する法律(規則などの二次法)に従う必要がありますが,二次法の審議には加われなくなります.2016年には1056件の審議がありましたが,このような業務は不要になります.一方,EUが結んでいる国際協定などについては,イギリスは結び直す必要があります.その際には,イギリスの利益を重視して交渉を進めることができます.

 

(3)連合王国の強化

イギリスは,イングランド,ウェールズ,スコットランド,北アイルランドの4地域からなりますが,3地域から見るとイングランドが全てを勝手に決めているという不満があります.4地域の密接な関係を強化する必要があり,離脱交渉では3地域の意見も聞く必要があります.3地域の自治や権限をどのようにするのかという点も考える必要があります.

JMC(EN)は2016年11月より月次ベースで開催されていますが,すでにスコットランドと北アイルランドは今後の方針や希望を報告書の形で会議に提出しています.その中では,スコットランドはEUの関税同盟への参加を希望しています.

 

(4)アイルランドとの関係強化,共通旅行地域(CTA)の維持

共通旅行地域とはイギリス,アイルランド,マン島,チャネル諸島からなり,この地域の人々は自由に移動できます.マン島(バイクレースで有名)とチャネル諸島はイギリス領ですが,EUではありません.北アイルランドとアイルランドは現在は移動が自由ですが,Brexit後も自由な移動を確保したいということです.なお,アイルランドはユーロが使えるEU加盟国ですがシェンゲン協定には参加していないため,アイルランドからEUへ出国する際にはパスポートのチェックがあります.

 

(5)移民の管理

2016年6月の国民投票の争点の一つが移民でした.BrexitによりEU域内からの移民をブロックできるようになります.今後は,高い能力を持つ人々や留学生の流入は歓迎するものの,能力の低い人々の流入を阻止したいと考えています.数値目標はここにはありませんが,流入から流出を引いた純流入数を10万人にしたいと考えているものと思われます.

 

(6)イギリスに居住するEU市民,EUに居住するイギリス市民の権利

EUのルールでは,EU域内の人はどの加盟国でも自国民と同じ待遇を受けることができます.医療などの社会保障などで自国民と外国人の差別をしてはいけないということです.日本人はEU域内の人ではないので,日本人は現地の人と同じ待遇を受けられるかは分かりません.この点も国民投票の争点でした.イギリスには2015年で90万人以上のポーランド人が滞在しており,彼らが無料の病院サービス(NHS:国家医療制度)を過剰に利用している,という主張があったためです.このような考え方をベネフィットツーリズムといいます.この主張は裏付けがなく,EU域内移民は税金や年金の掛け金などをしっかり払っていて,イギリスの財政には黒字の影響を与えていることが分かっています.

EU離脱後に,イギリス在住のポーランド人などの権利をどうするのかを考える必要があります.同時に,スペインに30万人,ドイツに15万人住んでいるイギリス人の権利を保護してもらう必要があり,交渉の重要なテーマです.おそらく,できるだけ今までと同じようにお互いの権利を認めるようにしてほしい,という流れで交渉が進むでしょう.

 

(7)労働者の権利の保護

EUは労働者の権利についていろいろなルールを課しています.Brexitによってイギリスの労働者の権利が低くならないようにするということです.いくつかの分野によっては,すでに,イギリスはEU基準を超える労働者の保護を実施しています(法定年次休暇はEU基準は4週間,イギリス基準は5.6週間).

 

(8)EUとの自由貿易の保証

メディアで大きく取り上げられている分野です.すでに単一市場からの離脱は確実視されていますが,白書では分野別の記述があります.

標準化についてはESOに協力を続けます.なお,ESOはEUの機関ではありません.農産物についてはイギリスは対EUで輸入超過となっており,イギリスの政策の自由度が増すとしています.ただ,ウェールズなどではEUの共通農業政策(CAP)からの補助金削減は痛手となるはずで,イギリス政府は対策が必要でしょう.

金融サービスでは,現行の金融パスポートに近いものを模索します.この分野では,EUで活動するイギリス企業5000社とイギリスで活動するEU企業8000社が関係します.金融監督の分野では引き続きEUと協力するとしています.

 

(9)EU域外との自由貿易交渉の保証

イギリスの貿易は,対EUが44%であり,56%のEU域外との交渉が重要性を増してきます.二国間FTAなどを進めていく必要があります.

 

(10)科学技術とイノベーションの促進

研究開発(R&D)の確保は経済の競争力を確保するために必要です.EUではR&DをGDPの3%以上にする目標があり,Horizon2020という研究開発の資金援助制度があります.イギリスはHorizon2020に多く参加していますが,今後も参加を続けられるのかが問題となります.既存のHorizon2020プロジェクトに関しては,イギリス政府の拠出分を支払う方針です.またESA(欧州宇宙局:EUの機関ではない)のプロジェクトなどEUと協力しているものについても資金の負担を続けます.さらにイギリス政府はBrexitをにらんで,2021年までに20億ポンドを拠出します.

この問題はあまりメディアには取り上げられませんが,イギリスにとっては非常に重要です.研究者は先進各国で奪い合いになっており,よりよい環境や研究費を求めて,簡単に国境を越えて移動します.Horizon2020はEUでは大きなインパクトがあります.Brexit後もイギリスがHorizon2020に参加できますが,スイスなどと同じEU域外国の扱いになってしまい,プロジェクトの採択数が激減します.イギリスのいる研究者や優秀な学生が,ドイツなどへ移動する可能性があり,イギリスの長期的な競争力を引き下げます.そうならないように,イギリス政府はEUへの資金負担やイギリス独自の研究費の拠出が必要になります.少なくともこの分野では,Brexitによりイギリス政府はお金を節約できる,ということはありません.

 

(11)犯罪・テロ対策

イギリスはユーロポールのプロジェクトに参加していますが,今後も密接な関係を維持します.また,EUの情報データベース(特に難民や犯罪に関するもの)へのアクセスも確保します.イギリスはEUの犯罪記録システムへのアクセスで加盟国28カ国中4位です.また,サイバーセキュリティーなどの分野でも協力を続けます.

 

(12)スムーズで整然としたEU離脱

この項目では特に取り上げることはありません.イギリスはできるだけ早く交渉を終えたいと考えています.

 

これらを見ていくと,イギリスにはEUとの関係を断ってしまう意図はないということが分かります.また,一部の分野では費用の負担をこれまで通り続ける方針です.単一市場からの離脱だけを見て「ハードブレグジット」だという論調が多いですが,イギリスの方針をよく見てみると必ずしもハードではないということです.

ただし,この方針はイギリスの方針であって,イギリスに都合のいい話です.EUがイギリスの条件に沿って交渉する保証はありません.メディアではイギリスに罰を与えるために厳しい交渉をするだろうといわれていますが,それはEUにとって利益になりません.今年は選挙が多いため,政治家のパフォーマンス的な発言が多く出ると予想されますが,実際の交渉は多くの官僚が参加して進められていきます.表面的なパフォーマンスではなく,何が進んでいるのかきちんと把握する必要があるでしょう.

 

本日はここまで.